オペラハウスとイスラム

モーツアルトの「イドメネオ」は、この天才作曲家が24才のときに書いたものだ。1780年の晩秋から翌年にかけてミュンヘンで書いた唯一のオペラらしいが、この頃、モーツアルトは一番、幸福な時期にあったと,あるモーツアルトの伝記家は書いている。

「猛烈ステージパパ」であった、父レオポルドは、「イドメネオ」について、オーケストラの部分が難しすぎると気に入らなかったらしいが、ミュンヘンのオペラハウスで1781年に初演されたときは、なかなかの好評であったという。

ヘンデルの頃のバロック調を復活させ、古代に題材を得た作品で、ポセイドン、キリスト、仏陀、そしてモハメドなど、さまざまな神や預言者が登場する。

ところが、このたびベルリンで公演中であった「イドメネオ」が突如、中止となった。理由は、イスラム過激派からのテロがあるかもしれないと、劇場の支配人が不安を抱いたことである。

オペラの中で、キリスト、仏陀、そして預言者モハメドが首を切られるシーンがあるからだ。しかし、具体的に脅迫があったわけではない。

それなのに、劇場側が「イスラムを冒?(ぼうとく)していると抗議されるかもしれない」と、自粛したのであった。オペラ愛好家は怒り、ドイツ国内では、「まるで自己検閲だ」と劇場に対して批判の声が上がった。

ここまでテロリストに簡単に屈服してよいのであろうか。18世紀の作品を「自粛」して禁止する必要はあるのか。しかし、時代が時代である。ここは安全第一を考え、中止したのであろう。

閉鎖空間でもある劇場でのテロといえば、ロシアで占拠された満員のミュージカル劇場の悲惨な光景がまだ脳裡に焼きついている。

ところで、同時多発テロの犯人の大部分はドイツに住んでいた。ドイツが戦後、外国人に対してオープンな社会になったことを逆利用しているのだろう。

つい最近も、ドイツの電車に爆発物を置いた犯人が捕まえられている。
(幸いにも爆弾は技術的なミスで炸裂しなかった。) 

同時多発テロ以来、中東出身の人々への監視は強化されているというが、電話・メール・ファックスなど、盗聴件数が増えすぎて、これでは「わらの束の山の中の小さな針をさがすようなもの」。

かえって危険人物が隠れやすくなったとも言われている。

「イドメネオ」は、モーツアルトの代表作ではないが、中止されたことで「見たい」という観客が増えている。

怖いもの見たさ、禁止されると余計に見たくなるのが人間のサガか。結局、劇場側は世論の強い批判に屈して、12月に予定通り問題のオペラを上演することにした。果たしてモーツアルトさんは、あの世でこの自粛劇をどうみておられるだろうか。

(付記・その後このオペラは上演されることになった)

(文・福田直子、絵・熊谷 徹)ホームページ http://www.tkumagai.de

保険毎日新聞 2006年10月